道徳の時間 ー放言仙人ー



カテゴリ:文化( 19 )


No.00051 盗作された「マイナス・ゼロ」と「009ノ1」

 広瀬正のSF小説の一つに「マイナス・ゼロ」(河出書房新社 昭和45年)がある。これは日本のSF、特に時間旅行を扱った作品の中ではまさに最高の作品の一つと言えると、私は考えていた。

 本と言うのは儚い存在である。どんなに名作であっても、売れなければくだらない新刊どもに埋没して淘汰される。この「マイナス・ゼロ」もご多分にもれず絶版になっていたようだ。c0166880_16535372.jpg

 ところがうれしいことに、この本が復刊されていた。大手の本屋さんで平積みになっていた。素晴らしいことだ。もしSF好きの方でまだ読まれていない方は、是非読まれることをお勧めする。

 この「マイナス・ゼロ」のプロットはたまらなく良い。ある種の感動を与える優れものだ。この話が多くの人に再び読まれることになるのは大変良いことだ。

 ところがある一人の作家にとっては、困ったことになったと考え込んでいるのではなかろうか。それはこの「マイナス・ゼロ」の最も主軸になるプロットを盗んでいる?作家がいることだ。その名前を上げれば多くの人が知っているだろう。作品も映画化、ミュージカル化されているので、読書しない人でも知っている人は多いのではないか。

 おそらくこの作品(仮に「A」としておこう)の方が「マイナス・ゼロ」より多くの人に知られているだろう。先に「マイナス・ゼロ」を知っている人は、この「A」がパクリだともとより知っていることである。しかし「A」を先に知っている人が「マイナス・ゼロ」を読めば、どう思うだろうか。

 こういうたぐいの盗作は結構多い。私が知っているだけでもいくつかある。知らないところにもまだまだあるだろうし、隠れた盗作は結構あるのではないだろうか。

 他の一例も挙げる。石森章太郎(当時)の「009ノ1」というマンガの第一巻(朝日ソノラマ 昭和47年)の第五話に「指令 No.5=古城よりの招待」というものがある。東西冷戦をモデルにしたと思われる「ウエストブロック」と「イーストブロック」の数名の諜報員たちが、 Mr.リヴェンジと名乗る城主よりその古城に招待され、謎解きゲームという形式の復讐をうけるという話である。(以下ストーリー概略あり。知りたくない方は★★★〜★★★までは読まないで下さい)

★★★
 諜報員たちが招待状に書かれた地図に従って古城へ車で向かう。一本道の途中に橋があるが、彼らが通り過ぎると爆破されて退路を断たれる。城に入ると、車も爆破される。Mr.リヴェンジは姿を現さず(あるいはアンドロイドを代役にたて)、スピーカーからの音声のみで諜報員たちと接する。古城に仕掛けられた罠で、諜報員たちが一人ずつ殺されてゆく。
★★★


 これと非常に良く似たプロットで書かれた最近のマンガ「B」(現在、テレビでシリーズ放映中。この単元については映画化もされたようだ)があることにお気づきの方もいらっしゃるだろう。そう、私なら明らかに盗作の範疇にはいると判断するパクり方のマンガが存在するのである。

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 小説にしても脚本にしても、そのプロットをオリジナルで作り上げるというのは、大変な能力と労力を必要とするものである。だから芸術は尊重されるのである。

 全ての芸術は、それ以前の芸術を礎として成り立っているものだから、過去のものと似るというのは、ある程度は避けられないことなのかもしれない。しかし何事にも限度がある。そのオリジナリティーによって賛称された作品の最も主要な部分をパクるのは、やはり盗作であろう。

 もしその過去の作品のオリジナリティーの上に自分の作品が立っているのであれば、そのことを必ず公にするべきである。例えば「A」という本の最初に「この本のストーリーは、広瀬正氏の『マイナス・ゼロ』のプロットを元にして作成しました」などと明記すべきである。「B」というマンガのその単元の頭に「この話は、石森章太郎氏の『009ノ1 第一巻 第五話』をヒントにして描きました」などと断らなければならない。

 盗作か盗作でないか、これを判断するのは非常に難しい。何をもって盗作とするか、という明確な基準がないからである。しかし、だからといって、盗作が許されるわけではない。

 芸術作品における盗作かそうでないかの基準は、作る側(作家)の立場に立てば「良心」であり、鑑賞する側(読者)の立場に立てば「直観」である。これは非常に曖昧なものであるが、だからといって「盗作かどうかの基準などないのだ」などと言ってしまえば、芸術は存在し得なくなる。

 だから読者が、自分の感性でこれは「盗作だ」と感じた作品に対しては、声を大にして「盗作ではないのか」と言える環境を作るべきだし、それを作家は「名誉毀損だ」あるいは「侮辱罪だ」などとは決して言ってはならない。その判断は読者総体に委ねるべきである。

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by hogensennin | 2008-09-09 14:03 | 文化

No.00034 おかしな日本語「〜的」

 

 それはテレビ的には面白いかもしれないけれど、わたし的にはつまらないわ。やっぱしみんな的には楽しい的な事的を誰的にもわかりやすい的に番組的を作る的だわ。的的が的的で的的に的的でしょ。的的の的的も的的的的的的…

(日本語訳「それはテレビとしては面白いかもしれないけれど、わたしはつまらないわ。やっぱりみんなに楽しい事を誰にもわかりやすいように番組を作るべきだわ。以下不明…)

【今日的なバカ:的的的的言っている奴】

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by hogensennin | 2007-12-06 11:53 | 文化

No.00032 おかしな日本語「進化」

 「××選手は、また進化しました」
 
 へえ、××選手は、やっと人間になれたのか。ふうん。今まで猿だったのね。え、進化ってそういう事でしょ。アメーバがミジンコになって魚になってワニになって鳥になって猿になったことを「進化」って言うんでしょ。へ、なに、××選手の能力が向上した事を言いたいの。なんだ、そういうことか。そうなら、それは「進歩」でしょう。わけのわからない日本語を使うのは、たいがいにしなさい。

【今日のバカ:「××選手は進化しました」と言っているアナウンサー】

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by hogensennin | 2007-12-04 11:10 | 文化

No.00030 AC公共広告機構

 「AC公共広告機構」というと、道徳的な啓発などをCMで流しているところだとは、多くの人が知っているだろう。この「AC公共広告機構」とは何をしているところなのか。どういう目的があるのか。この団体の流しているCMに予てから違和感を感じていた私は、少し調べてみた。

>「環境問題」や「家庭問題」「公共マナー」など、いま、日本社会が必要としていることを取り上げます。

 テーマの選定は、年度ごとに行なわれ、会員 社、賛助会員、学生を対象とするテーマアンケート調査の結果と、有識者から成るテーマ調査会からの諮問を下に、候補案を策定し、全国テーマ会議で決定しま す。

 テーマ選定の基準は、「日本及び日本国民にとって最優先の課題であること」。ただし「非政治的、非宗教的、非党派的、非商業的であること」を前提とし ています。

同HPより)


 同時に、こうもある。

> AC公共広告機構は、約1300社の企業を会員社(正会員)とし、公的資金をいっさい受けず、会員社の会費で運営されています。

(中略)

 会員社は、メーカー、流通、サービスなどの「企業各社」、放送、新聞、雑誌、鉄道会社、ITなどの「メディア各社」、そして、広告会社・制作プロダクションなどの「広告会社」が参加しています。

 また、一般の方からも賛助会員を募り、広告作品や活動への評価・ご意見を寄せていただいています。

同HPより)



  企業より会費(一口12万円/年 何口でも可)を徴収して運営されているにも関わら ず、「非党派的、非商業的」なのだそうだ。そんなことはありえるのか。会費ならば全会員社とも同額を納めるべきで、納付する金額が自由ならば、それはスポ ンサーというのである。ACはさまざまな企業をスポンサーとした団体なのである。

 さあここで疑問が生ずる。ACは大口スポンサー (多数口の会費を払ってい る会員社)の意向を無視できるだろうか。「うちの会社に都合のよい広告をなが せ」と圧力がかかれば、その通りにしなければならないのではないか。百歩譲っても、大口会員社に都合の悪い広告は、たとえ「日本の社会が必要としているこ と」であっても、流す事ができないのではないか。

 例を上げる。

  乳がんの定期検診の啓発CMをACは流している。ACの趣旨からするとこの乳がん定期検診は「日本及び日本国民にとって最優先の課題」かつ「非商業的」で なくてはならない。しかし乳がんの定期検診が果たして「日本及び日本国民にとって最優先の課題」なのか、大いなる疑問が残る。

 なぜなら、「乳がん定期検診」が「乳がん」の治癒(完治すること。治癒=治療ではない! ) に寄与しているというデータが発表されていないからだ。当然、定期検診、早期発見が乳がんの治癒(治療ではない!!)に役立っているから、そういうCMを 流しているはずである。もし乳がんの定期検診が乳がんの治癒(治療ではない!!!)に役立っていないのなら、「乳がん検診を受けましょう」など詐欺に等し い。よしんばその事実、乳がん定期検診が乳がんの治癒(治療ではない!!!!)に寄与していないこと、をACが知らなかったとしても、その責任は重大であ る。

(※ いくら治療しても、治癒しなければなんの意味も ない。医者や医薬品業 界を儲けさせるだけのことである。反対に治療しなくても治癒する(自然治癒)のであれば、それが一番良い事である。ここで大切なのは、果たして乳がんの定 期検診が乳がんの完治に役立っているかどうかである。早期発見して治療を行ったが、数年後再発し、再治療後再再発し、辛く苦しい思いを長く続けて、それで 最期はやっぱりガンで死んだ、など、しゃれにならない)

 こういうCMを流す以上、ACはその必要性と効果を、国民の前に明らかにするべきではないのか。ACが公共性と非営利性を標榜するなら、絶対に必要なことである。明らかに出来ないのなら、ACは営利の為にある、と言われても仕方なかろう。

 乳がん検診の受診率が増えて、得をするのはどこか。医師および医薬品関連企業である。そしてACの会員社には、そういう医薬品関連企業が軒を連ねている。いったいこれらの企業がいくらの寄付(会費)を支払っているのか。

 ACが公共性と非営利性を標榜するなら、どの企業がどれだけのお金を支払っているのか、HP上で公開すべきだ。

 そして流したCMの必要性(乳がんCMの場合、乳がん検診の効果=完治率)を、国民に明らかにするべきである。

 そうでない限り、「日本国民のためと言いつつ、実は営利のために動いている偽善者だ」と言われても仕方あるまい。

 参考: 「『ガン呪縛』を解く」稲田芳弘著
    「抗ガン剤で殺される—抗ガン剤の闇を撃つ」船瀬俊介著

【今日の偽善者:AC公共広告機構】



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by hogensennin | 2007-12-02 10:54 | 文化

No.00029 商業クリスマス

 まだ12月に入る前から、街はクリスマスのイルミネーションで派手派手しい。年々、クリスマスの宣伝を始める時期が早くなっているような気がする。

 しかしまあ、クリスチャンでもない多くの日本人が、キリスト教のお祭りに踊らされて、飲み、喰い、買い、騒ぎ、そしてセックスにふける。当然クリスチャンならそんなばか騒ぎは出来まい。聖夜は静かにお祈りをして感謝して過ごすものだからだ。

 戦後、アメリカによって白人至上、欧米礼賛という思想に洗脳された日本人は、何でも欧米のものなら「かっこいい」とでも思うのか、すぐにマネしようとする。バレンタインもそうだし、最近ではハロウィンなんてのも入ってきて、それを流行の先端だと思っているようである。

  最近少しはそのバカさ加減に気づいたのか、茶髪の度合いがましになったように感じる。髪を染めるのがおしゃれだというのなら、赤や青や紫、オレンジなど など、様々な色に染めてみろ、というのだ。どうして金茶にしかしないのか。安直に「赤や青は似合わない」「茶色が素敵だ」などと言うなよ。どうして「赤や 青は似合わない」「茶色が素敵だ」などと思うのか、その理由を良く考えてみなさい。結局は白人のブロンドに憧れてのことだろう。そういう風に洗脳されてい るのだ。

 「自分は洗脳されていない」などと言うな。カルト宗教に洗脳された信者も「自分は洗脳などされていない」と言うではないか。洗脳されている間は、自分が洗脳されている事に気づかないのだ。

  いい加減、自分が洗脳されて、商業主義の中にうまく組み入れられて、思うがままに金を吐き出させられている、と気づかなくてはならない。それに気づかな い以上、江戸時代の農民と同じ、永遠に搾取され続けるのだ。そういうと江戸時代の農民に失礼かも知れない。彼らは現代の商業奴隷たちより、ずっと知恵も あったし、問題意識も持っていただろう。

 「だって楽しいからいいじゃない」そう思っている者は永遠にそう思って、永遠に奴隷であり続ければいいさ。

【今日のバカ:「クリスマス」「クリスマス」と心浮かれている者】

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by hogensennin | 2007-12-01 10:52 | 文化

No.00027 おかしな日本語4「町の××屋さん」

 町にあるお店の看板を見ると、最近よく「お米屋さん」「パン屋さん」など店種の後に「さん」をつけたものがある。「電気屋さん」「バイク屋さん」などもある。

  「さん」って、相手の名前などにつける敬称で しょう? お客の方が「角のパン屋さんに行って買ってくる」とか、「駅前の電気屋さんで売っているよ」など といった風に使うものである。自分のお店に「さん」という敬称をつけるというのは、自分の名前に「さん」をつけて、「私は田中さんです」と自己紹介するよ うなものである。

 敬語の使い方が滅茶苦茶になってきているが、それはこんな所にも現れている。(大人にきちんと教えられていない)子供が間違った言葉を話すのはまだしも、大人がこんな低レベルの敬語の使い方を誤るなど、世も末である。

【今日のバカ:「町の××屋さん」と臆面もなく書く、「町の××屋」】

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by hogensennin | 2007-11-29 18:40 | 文化

No.00026 おかしな日本語3「1000円からお預かり」

 表題の通り。いったい何だ「1000円からお預かりします」ってのは。正しくは「1000円お預かりします」だろう? 「から」は何だ。「いつから」の「から」か? 「どこから」の「から」か。全く意味不明だ。いったい誰がそんな訳の分からない日本語を使いだしたのだ。

 「から」という意味から考えると、「1000円から900円頂戴しましたので100円お返し致します」という文しか、コンビニのお金のやり取りの文脈では考えられない。

 「言葉は変わるものだ」と言うバカ(たまに言語学者までこんな世迷い言を言う)には、きっちり釘を刺しておく。そんなに簡単に言葉は変わってはいけないのだ。変えてはいけないという圧力を、常にかけておかなければならないのだ。

 何でも変わって良いのなら、世の中にルールは不必要になる。言葉は時代によって少しずつ変化するものではあるが、それは結果論である。良識ある人間ならば、「正しい言葉遣いをしなさい」と言い続けなければならないのである。

【今日のバカ:「言葉の変化は仕方がない」と言う言語学者】

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by hogensennin | 2007-11-28 18:37 | 文化

No.00025 うんこは持ち帰りなさい

 道を歩いていると、犬のうんこがそこかしこに落ちている。今日日、野良犬はいないから、これらは全て飼い犬の残したうんこだろう。

 犬は自分で持ち帰れないから、そこにうんこを放置しているのは飼い主である。人間がうんこを道端に放置しているのである。

  それから、飼い犬をリード(首輪とひも)でつながずに、放して自由に歩かせている飼い主もいる。「うちの犬は迷惑をかけないから」とでも言うのか。犬嫌 いの人、犬に恐怖感を持っている人は、リードにつながれていても嫌なものである。ましてリードにつながれていない犬など、大迷惑であろう。万が一咬んだら どうするのか。絶対に咬まない保証があるとでもいうのか。

 犬の飼い主よ。良識を持ちなさい。

【今日のバカ:犬の飼い主】

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by hogensennin | 2007-11-27 18:35 | 文化

No.00023 おかしな日本語2「温めますか?」

 コンビニでお弁当を買った時、店員に「温めますか?」と聞かれた時の事である。

 「温めますか?」って、私がそのお弁 当を家で温めるか温めないか、店員に言わなければならないのだろうか。頭の中に「?」が3つぐらいついたけれども、 ああそうか、温める用のお弁当と温めない用のお弁当があって、もし家で温めるのなら、温める用のお弁当を買って下さいね、という店員の親切心かも知れな い、と私はその一瞬で考えた。

 「たぶん、温めると思いますけれども」私は答えた。

 店員は少し怪訝な顔をしながら、「今、温めますか?」と再度私に尋ねた。

  今ってどういうことよ。そういえば、店員の後ろに電子レンジらしきものがある。あれを使って温めろということなのか? でも、そんな、レジの後ろなんか に入っていいのだろうか。私がどうしたものかと困っていると、隣のレジの店員がその客に同じ事を言っていた。「お弁当温めますか?」

 客が「はい」と言うと、店員は手慣れた様子でそのお弁当を後ろのレンジに入れて、ポンポンとスイッチを押していた。

 ああそうなの?! 「温めますか?」は「温めましょうか?」という意味か!

 そんな訳の分からない日本語、理解できるか!!!

  「温めますか?」の主語は「あなた(客)が」である。「私(店員)が」では絶対にない。「私(店員)がお客様のお弁当を温めますか?」という文は、意味 上、成り立ち得ない。例えば「私はご飯を食べますか?」「私は明日東京へ行きますか』などのように、「私が××しますか?」という文は、普通は成り立たな い。さきの店員の台詞は、「私(店員)がお客様のお弁当を温めましょうか?」でなければ、絶対におかしい文である。

 また仮に「客が弁当を温める」という意味で尋ねたのだったとしても、お客に対して「温めますか?」なんてため口が許されるのか。ちゃんと敬語で「お温めなさいますか?」と聞くべきである。

 だからこの場面では「お弁当お温めいたしましょうか?」が正しい言葉遣いである

 それ以来、私はコンビニで「お弁当温めますか?」と聞かれた時には、「誰が?」と聞いてあげることにしている。

 ところが今日、コンビニへ行ってびっくりした。「温めますか?」が進化←この言葉遣いもおかしい。後日書く)して「温められますか?」になっていた。目が点になって、「誰が?」という皮肉の言葉さえ言うのを忘れてしまっていた。

【今日のバカ:コンビニの店員】

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by hogensennin | 2007-11-24 18:12 | 文化

No.00022 おかしな日本語1「無洗米」

 巷にはどうにもバカが多いようで、日本語として通用しない日本語が氾濫している。かつてバカはバカらしく「バカな自分が言葉を造ってはいけない」と謙虚にしていたものが、今はバカが自分がバカだと言う事に気づかず、どんどん訳の分からない日本語を造っている。

 これから何回に渡るかわからないが、意味の分からない日本語を糾弾してゆく。

◆     ◆     ◆

  「無洗米」これを字のまま理解すると「洗っていない米」という意味になる。本当は「洗わなくても良い」という意味にしたかったのだろう。しかし 「無洗米」なら「洗っていない米」という意味になる。もし「洗わなくても良い」としたいのならば、「洗わなくても良い」=「洗う必要がない」だから「不要 洗米」とならなければならない。

 否定を表す「無」は、一般に名詞の頭につく言葉である。「無線」「無人」「無効」などである。動詞の意味を持つ漢字につく場合も、動詞ではなく名詞として否定する。例:無断=断り(名詞)無し。だから「無洗米」は「洗い無しの米」となる。

 「無洗米」を考えた者は言語感覚が全く不足している。まともな言語感覚のある者なら「無洗米」など気持ち悪くて仕方がない。「ら抜き言葉」が気持ち悪くない輩と同類である。

【今日のバカ:全国無洗米協会

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by hogensennin | 2007-11-22 18:07 | 文化


山に籠りて幾千年/霞を喰らひて瞑目すれど/下界の喧噪耳に障る/咄、刮目下山成敗ぢや
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